浪廊の館

浪人になったチャリダーが綴る日常。

教科書に載っている小説は著者が致したあとに書いたものではないか疑惑

最近は英語の勉強ばかりで、疲れてしまうと何も考えたくなくなります。

そうなると本を読みたくても頭を使わずに読めるような、例えばライトノベル文学史の評論などばかりに手が伸びてしまうので、普通の小説を買う機会が自ずと減ってしまうのです。

かといって無理に買って読むのも作者に申し訳ないので、リハビリも兼ねて高校で使っていた現代文Bの教科書に載っている小説を読むことにしました。

思いついた一つの疑惑

読んでみると小説はほんの少ししか載っていません。

僕が高校で使用していたのは東京書籍の精選現代文Bという教科書なのですが、評論が10本以上掲載されているのに対して、小説はわずか5本のみ。

しかも「檸檬」や「赤い繭」などあまりに前衛的過ぎる作品ばかり。

しかし思い返せば中学時代に使っていた教科書も辛気臭い作品ばかり。

なぜ教科書に載る言わば文豪の作品は暗いものばかりなのか。

何気なくトイレに篭っていたら、閃いてしまったのです。

文豪の名作は致してから書いた

賢者モード

この記事を読んでいる男性諸君には手に取るようにお分かりいただけるでしょう。

致したことがない人に向けて説明すると、欲求を満たした後数分間に渡って訪れる、目まぐるしく思考が変化しながら超越的な感受性を獲得する一時の状態を指します。

その間は目が据わってこれまでが嘘だったかのようぬ冷静になるため、人はこれを悟りを開いた状態になぞらえて「賢者モード」と呼ぶのです。

例えば先に書いた「赤い繭」。

帰る家がない主人公の”おれ”は、ある一軒家の女性に「ここは俺の家じゃないのか」「俺の家でない証明はない」と追及して訝しげられたり、公園のベンチに座っていたら警官に追いやられたりした後に大きな赤い繭となり、”彼”に拾われてその息子のおもちゃ箱に仕舞われる、というシュールレアリスム的な作品です。

 これについて、作者の安部公房はこんな覚書を残しているのです。

当時ぼくは極貧の中にいた。そのくせ、ほとんど貧しさを自覚しなかった。貧乏はまるで自分の皮膚のように、自然にぼくの輪郭になっていた。ぼくはたぶん、その貧しさを紡ぐようにして作品を書いたのだ。とりわけ、この『赤い繭』は、そのままぼくの分身のように思われる。作者は、そのたびに、作品の中で自殺しなければならないものらしい。

 これはおそらく”自分の一部”として無意識に纏っていた「極貧」を、極寒の中で致したことによる刹那の精査によって自覚することで芽生えた”脱皮”したいという願望を文として紡いだ、ということではないでしょうか。

然ればこの作品が自身の境遇への不満と致した後の自己嫌悪の反応に基づく”負”の感情に満たされることも頷けます。

 

~ここまで賢者モード

 

...そんなわけがあるか。

安部公房はただ貧乏で苦しくて苦しくて仕方がなく、それから自分が抜け出して救われる物語を書きたかったのだ。

大体、致したあとに赤玉出してショック受けたように赤い繭を登場させるわけがない。

この疑惑は否である。

 

ちなみにこの文章は致してから書きました。

というわけで、賢者モードでどこまで書けるかという実験でした。

 

Thank you for reading this to the end.

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